京都 歴史 巡り

京都の歴史巡り人気の戦国武将(三英傑)ゆかりの史跡を散策

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京都には、歴史人物のゆかりの史跡がたくさんあります。歴史巡りの散策で、特に人気があるのは、戦国武将 、三英傑(さんえいけつ)の京都ゆかりの史跡巡りの観光です。

 

京都の歴史を語る上で戦国時代を駆け巡った三英傑は、欠かせない重要人物です。またその史跡も多くの人に親しまれています。

 

 

戦国時代の三英傑で京都にある有名な史跡、文化的価値のある遺産といえば、歴史の順からいいますと織田信長の本能寺豊臣秀吉の醍醐寺徳川家康の二条城と言うことになるでしょう。

 

醍醐寺と二条城は世界遺産にも指定されている文化遺産です。いずれも戦国武将には欠かせない人気の史跡です。

 

では、京都の歴史ある史跡を紹介していきますね。

 

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織田信長の終焉に地・京の本能寺

京都 歴史 巡り 戦国武将

さて、信長の本能寺といえば、時代劇映画(現代とのタイムスリップ)「本能寺ホテル」も話題になりました。

 

信長が明智光秀によって討たれた信長終焉(しゅうえん)の地としてたいへん有名です。

 

織田信長といえば勿論、戦国の世の人気のあるトップスターの武将ですね。戦国の混乱の世を治めようと四苦八苦している中でようやく周辺諸国を制圧する事に成功します。

 

 

この時から信長は上洛(じょうらく)の意思を示し始め、この上洛のために度々本能寺に馬を泊めたとされ、記録されているだけでも合計四回にわたって本能寺に滞在したとされています。

 

京都の本能寺に滞在した理由は色々と政治向きの事もあったでしょうが、先ず、第一は信長自身が日頃から天皇に近づきたいと思っていた節があるようでした。

 

 

其れに、本能寺の高僧・日承上人と親しく、彼の本当の意志は仏教を学び、仏教を本来の姿に立ち戻したい考えがあり、其処で武士団のような比叡山を焼き払い、一向宗徒を制圧したともいわれているのです。

 

また、当時の本能寺というのは今よりずっと大きく広く、寺院の周りは高い塀と、深い森で囲い、非常に安全な造りになっていたと記録されています。。

 

それに、本能寺の信者には大阪堺の信者が多くいて、当時はこの堺を通じて鉄砲が流入してきたということで、この本能寺に滞在すると鉄砲や火薬を入手しやすかったようです。

 

信長が最後の本能寺となった「本能寺の変」は、天正10年(1582)6月2日、 明智光秀によって討たれたが、記録では本能寺の広い境内には信長勢は、僅かに100人余りしか泊まっていなかったとされています。

 

この時に蘭丸に「親方様どうなされますか」との問いに「是非に及ばず」と答えました。その発した言葉「是非に及ばす」はあまりにも有名な言葉ですね。

 

この言葉の意味は、光秀に攻められて「今更どうにもならない」という意味と「真実を確認する必要はない」との解釈もあるようです。

 

因みに、当時の本能寺は京都油小路高辻と五条坊門の間にあった広大な寺院であったが、その後は秀吉の命で、現在の寺域である中京区下本能寺前町へと移転しています。

 

 

 

 

 

豊臣秀吉が最後に見た桜・「醍醐の花見」は花見の起源

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京都での桜の名所の一つには世界遺産の醍醐寺(京都市伏見区)があります。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行ったところとしても有名です。

 

秀吉の醍醐での花見は、晩年の時期です。この後の半年後には秀吉はこの世を去ることになります。

 

 

醍醐寺の創建は平安期の頃で、現在でもそうですが山全体が寺院のという大規模で、当時の醍醐天皇勅願寺(ちょくがんじ)として其の名が付され、其れ以降は隆盛(りゅうせい)を極めていたといわれています。

 

 

その後は幾重の戦乱に巻き込まれ伽藍(がらん)は壊滅しそうになったが、醍醐寺と関係の深かった豊臣秀吉は醍醐寺を復興し、「この寺院の下で花見がしたい」と言い出したのだそうです。

 

 

およそ、1000本近い桜の木を移植したそうで、この辺りは戦国の世もやや安定していた時代でもあり、派手好きな秀吉らしい着想と逸話(いつわ)です。

 

 

秀吉が実際に行った「醍醐の花見」は、「北野大茶会」(北野天満宮)と並んだ、一世一代の大イベントであったといわれています。

 

この醍醐の花見は現代行われている、桜を肴に酒を飲んで騒いで愉しむ「ドンチャン騒ぎ」だったそうです。

 

それから現在の日本の花見になり、一般庶民も含めた「花見文化」が定着したのは、実は秀吉とされているのです。

 

醍醐寺では三宝院と其の三宝院庭園が特に有名ですが、玄関脇には時期になると見事な「大紅しだれ桜」が咲き見ごたえがあります。

 

他にも、日本でも代表的なソメイヨシノしだれ桜、其れに八重桜山桜などが、次々と咲き、3週間にわたっての長い期間鑑賞することが出来ます。

 

 

 

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徳川家康が秀頼と二条城で会見・秀頼の成長に驚く

 

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家康と豊臣秀頼(秀吉の3男)が、二条城で会見したのは関が原が終わって江戸幕府が成立し、やがて勃発する大阪に陣の直前の一時です。

 

そして、家康は謁見(えっけん)の際に見た秀頼の大人物ぶり、成長した姿に驚き、それに比べ息子の秀忠(二代将軍)の平凡さを思い、自分の死後は、徳川政権が危ないと思って、豊臣家を滅ぼしたという逸話(いつわ)もあるのです。

 

 

関が原の戦の後、大阪に入城した家康は、西軍の大名領地を没収し、東軍の大名に配分しながら、秀吉亡き後の豊臣家を何とか自分の前に膝まづかせようと腐心(ふしん)するのです。

 

 

このときにとった家康の行動は涙ぐましいもので、秀吉の妹を娶って正室にしたり、家康の孫娘を息子の秀頼に嫁がせていました。

 

この事は、家康なりに10年以上の永い歳月をかけて豊臣を説得しようとしていた証でもあります。

そして、最後の機会として淀殿(秀頼の母)が反対するにも拘らず、二条城で秀頼と合うことになるのです。

 

豊臣家にしてみれば、何が何でも自分が徳川よりも上司の存在であり、主筋だとして譲らないのですが、家康にしてみれば秀頼の謁見(えっけん)の姿を見て、察して、ここに家康の決意は固まったのです。

 

そして其の直後に、大阪の陣は始まったのです。

 

京都二条城は、京都市中京区二条通堀川にあり、現在の二条城は江戸期に徳川家によって造営されたもので、京都では唯一つの城郭(じょうかく)としての世界遺産になっています。

 

城内全体が国の史跡に指定されていて、二の丸御殿の国宝、二の丸御殿庭園が、特別名勝に指定されています。

 

二条城と徳川家とは、豊臣秀頼の謁見(えっけん)からはじまり、徳川家康の将軍宣下の賀儀と、江戸末期の徳川家が最後の第15台将軍・慶喜の大政奉還が行われ、つまるところ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもあるのです。

 

 

 

 

 

まとめ

三人の戦国時代の英雄、英傑と京都の史跡について述べましたが、京都には其の他にも彼らの足跡と言うか、所縁のあるところが沢山ありますが、今回は、其の代表的な文化的な遺産として記載いたしました。

 

これらの戦国武将・三英傑の人気の史跡は、更に掘り下げて見て見ると面白さも倍増すると思いますよ。京都の歴史巡りもこのような武将たちとの関わりを感じながら巡ると、史跡もより一層の趣があり良いものですね!

 

尚、京都の寺院の中には有名な世界遺産の神社仏閣がありますが、現在では京都のお城としての世界遺産は二条城が唯一になります。